Sashiko was a form of hand-stitching developed in a harsh condition with limited resources. So, when we talk about “Principal within Original”, it is “for someone we care”, instead of for ones to be special, express their aesthetics, or showcasing their skills. It is more personal, yet the unit is more like “family” and “community”.
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For me, Sashiko exists outside of dualism. It is like a between a letter written for someone specific for the purpose of “being read” and a diary written for myself to keep my words within myself.
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For me, Sashiko is a stitching form to add “story” onto fabric. Each Sashiko piece reminds me of when/how/where I was stitching. My students from [Core & Essence] learn to stitch in the rhythm – In doing so, they can “focus” on what they do instead of whether the stitches are accurate or not. Sashiko can be made for the purpose of “to be seen”, or can be kept in their own space for themselves. It can be personal, and it can surprise the world, too. There are quite a big numbers of people who spent their lives in Sashiko – there are a LOT to learn before shouting for “freedom” in modification.
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運針の後の轍のような針目には、その人柄が出るように思います。「針目見るとどんな人か分かるよー」と冗談のように針目診断と名付けておりますが、実際に感じるものがあるのは事実です。スピリチュアルとか霊感とか、目に見えないものを表現する言葉は沢山ありますが、この針目と人柄の関係性は、「積み重ねられたもの」があっての今で、沢山の方の針目をみてきたからこそ言葉にできることなのかもしれません。好む好まないに関わらず、刺し子をみてきた目だけは世界の誰にも負けないと思っています(刺し子そのものは…中の上くらいの立ち位置にいるような気がしております。まだまだ修行中です)。
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ふと、これは外と内の間に存在する人間としての本質を垣間見ているのかもしれないなと思ったり。表と裏。本音と建前。二元論で語られがちですが、裏と表の間に存在しているものもあるはずで。そういう意味では、刺し子は「誰かに読んでもらう為に書く手紙」と「自分の為の日記」の中間のほんの小さな部分を言葉ではなく針目として表現してくれているものなのかなと思ったり。
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自分でも気がつかないほどの「個人的なもの」だからこそ、簡単に答えを出してほしくないのです。答えがなくて良いじゃない。正解がなくて良いじゃない。何が良いのか、はたまた何をしているのかすら分からない中でも愛おしいと思える手仕事があることが、一番の刺し子の楽しみ方なんだろうと思っています。手紙と日記の中間点に存在する文章になりきれない想いたち。それを私たちは祈りと呼ぶのかもしれません。ちょっとカッコつけすぎましたかね(笑)明日から運針会の皆様の紹介を再開しますー!
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#Sashiko #刺し子
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